今朝に起床したら、好きな作曲家が逮捕されていた。ショック。
容疑者の楽曲に初めて出会ったのは2019年末。身震いするほどの落雷を受けた。人生で一番聴いた楽曲と言っても全く過言ではない。iPhoneのアプリには3年弱で671回の再生履歴が残っている。672回になることはないだろう。楽曲を提供していることを知って始めた某音楽ゲームも、アンインストールこそしないが容疑者作の楽曲をプレイすることは恐らくない。
残念なことに、私は人間性と業績を切り分けられるほどデキた人間ではない。作品そのものに罪は無い。それはそう。そうだが、再生ボタンを押すたびに沸き起こる邪念と不快感を思うと、もう二度と純真無垢な気持ちで作品に触れることは出来ない。
人の尊厳を踏み躙るような行為を起こす人間には、立てる中指こそあれど掛ける言葉はない。立場を利用したハラスメントを起こした政治家も、支持者を含めて論ずるに値しない。本当に他人を詰ることが悪い行為だと思っているなら「ハラスメントは良くないけれど」なんて枕詞は、死んでも口から出てこない。
そう言いながら、ひどい矛盾の中で生きていることは自覚している。大麻所持で捕まった邦人アーティストの曲は一切聴かない(別アーティストで客演していてもわざわざスキップする、我ながらダサい)が、薬物の過剰摂取で早逝したマック・ミラーは普通に聴く。
学生時代の暴力(私も被経験者のため敢えてこう表現する)が掘り起こされ国際的な祭典を降板したアーティストには今でも嫌悪に満ちた無関心を貫くが、麻薬欲しさに銀行強盗を犯したスタン・ゲッツに対する敬愛は変わらない。
あやふやな基準による、都合の良すぎるダブルスタンダード。後ろ指を指されながらバカにされても仕方ない。自分の中でOK/NGの判定は日々、黙々と下されているのだと改めて認識する。おかしな話だね。
大いなる怒りはあるものの、裁きと同時に更正の機会が十分に与えられる社会であってほしいとも思う。モンスター級の楽曲を世界に送り出したのは本当。"土曜日のフライト"を初めて聴いた際に受けた強烈な目覚めのパンチは、何十年経っても忘れない。デコが擦り切れるぐらい内省して、強い覚悟を持って音楽界に帰ってくれたら良い。
その上で、私は田中秀和氏の曲を聴かない。応援し続ける人がいることは肯定するが、私は下りる。今の怒りからスンと醒めたところで、その行為を心の底から許せる日は訪れないだろうから。
昔、SNSで過去に自分を虐めていた人に対する「もう怒ってはいないけど、許してもいない」というフレーズを見かけた。確かに。私を虐めていた同級生達のこと、今では特に何も思わない。ご本人が幸せに暮らせているなら、それでも全然良い。ただ、当時ひどく傷付けられたことは、今も許してはいない。逆に私だってそうだ。自分のせいで深く傷付けた人たちに、許してもらいたいなんて烏滸がましいことは言えない。
教会式の結婚式に参列すると神父が「愛とは赦すこと」なんて言ってたりして、なんのこっちゃ!と思っていたが、誰かを許す(赦す)というのは本当に難しい。今までの人生で、一度でも誰かを許したり許されたりしたことはあっただろうか。
自らの行いで打ち込まれた楔を抱え、時おり破裂しそうなぐらい苦悩しながら生きていく。そんな(どんな?)感じ。