365日をJ棟で

サラリーマンの諸々日記。買い物、音楽、日常。

日記ちゃん。またね〜。(2021/7/15)

祖母が亡くなり、諸々のために帰省していた。

加齢に伴い足腰や内臓を悪くしていたけれど、いたって元気な84歳だった。祖父は5年前、入院生活の末に逝去したが、夫亡き後の祖母は「少なくとも90歳までは生きる」をモットーに日々を満喫していた。

早起きして飼い犬の散歩を済ませ、合唱等の習い事に出掛けるアクティブな後期高齢者。亡くなる前日も仲の良い友人とプールに出かけ、明日も行こう!という話になっていたそう。しかし、翌日は昼近くになっても家の門や雨戸が閉まっている状態。定期的に様子を見に行っている叔母が、トイレに座ったまま事切れていたのを発見したそう。苦しんで外に出ようとした形跡などが無かったため、フッと意識を失うように命が止まったのだろう。当たり前だけど、急死って本当に急なんだ。

祖父のように身体を悪くして手術・入院、闘病の末に…というのは絶対に嫌だったとは思うので、苦しまずにポックリ逝くのは本望だったかもしれない。一方で、常に笑顔の誰かが傍にいた祖母だからこそ、誰にも看取られずに亡くなってしまったことは、あまりにも切ない。

 

母方の祖父を亡くした時、生前に感謝の気持ちを伝えることが出来なかった後悔で押し潰されそうになった。それ以来、親族・友人を問わずお世話になっている人に「いつもありがとう」と伝えることの躊躇いが無くなった。もっとこうしておけばよかった、という悔いを残したまま故人を見送ることはしたくないし、逆に自分が今日死ぬとしても心残りが無いようにしておきたかった。そうして祖母には定期的に会いに行ったり、電話をしたりで近況を伝えていた。

それでも昼寝をしているかのように横たわる祖母を見た時に、度し難い感情が込み上げてきた。その正体に気付いたのは、葬儀場から自宅に帰る途中。神戸と奈良は一見すると遠い様に見えるが、祖母の最寄駅から僕の最寄駅までは快速急行で1時間、乗り換え無しで行ける。こんなに近いんだ。それなら平日でも仕事終わりに行くことだって出来たな。忙しいだとか、ああだこうだ理由を付けてたけど、俺の忙しさは1時間のスキマ時間も取れないほどのもんではなかったじゃん。また後悔しちゃうな。気がつくと電車の中でポロポロ泣いていた。

コロナ禍の影響で最後に会ったのは去年の6月。当時の僕は不安抑うつ症を患っていたので、祖母には大きな心配をかけたと思う。寛解してからは、一度も会えなかった。本当はお盆の時期に父方(岡山)と母方(奈良)、夫々のお墓参りに1人でコッソリ行って、帰りしな祖母に挨拶する計画を立てていたのに、叶うこともなくなった。

ただ、2ヶ月前に電話が掛かってきて、声を聞くことは出来たことは大きな救いだった。ワクチンを打ち終わったら彼女と一緒に帰るからね、と話したところだった。「随分と元気になったね。声を聞いた瞬間に分かるよ」って、何でもお見通しやね。

 

「今日が一番幸せ」が祖母の口癖だった。思い出しながら「今日もそれなりに幸せだが、何かにつけて不幸だということにしたい」という極めてルーザー気質な自分のスタンスを強く恥じた。

50歳を過ぎてから運転免許を取ったり、兄妹とエジプトやインドを旅したり、還暦を過ぎてから韓流ドラマにハマって韓国語を猛勉強したり、免許返納前の記念に1人で琵琶湖まで運転したり(危ないのでやめてほしかった)、とにかく動いていないと電池が切れてしまう人だった。まさしく『最高の人生の見つけ方』のエドワード&カーターを地でゆく人生。祖母のバケットリストでチェックの付いていない項目は幾つ残っていただろうか。きっと本人は「まだまだ半分も終わってない」と大笑いして娘(母)達を呆れさせる違いない。

そうした時に、ああ、俺は自分の望む人生を全く送れてないなと。もっと自由に、好き勝手に、やってみたかったことを本当にやって良いんだなって。行動力が無くて敷かれたレールを外れることを極度に恐れていたけれど、祖母の血が自分のどこかに流れているなら、きっと小さなところから少しずつ自分の人生を良化できるんじゃないかって気がしてきた。その成長をもう見せることが出来ないのは残念だけど、たぶん上からずっと笑顔で見てくれているはず。ダメになりそうな時は、また優しく叱ってね。

 

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最高の、自慢の、いくつ形容詞を付けても足りないぐらい大好きなおばあちゃんです。また会いに行くから、暫くはおじいちゃんと愛犬たちと仲良く遊んでいてね。