365日をJ棟で

サラリーマンの諸々日記。買い物、音楽、日常。

日記ちゃん。記憶とか後悔とか。(2025/4/14)

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先日、久しぶりに吹奏楽のコンサートを観に行った。私、大学時代はジャズ研、中高時代は吹奏楽部に所属していたんですよ。今回は中学時代の恩師(顧問)が指導者をリタイアする、その記念コンサートだった。

いち公立中学校の教師のために引退コンサート…?という疑念はあろうが、顧問は近畿圏では知らない人の方が少ないであろう、名物先生だった。笑ってコラえて!にも出ていた淀高の故・丸谷先生ほどではなかったかもしれないが。

私が中3になる年に、先生は隣町の強豪校から異動してきた。私が1,2年の頃の吹奏楽部といえば、県大会で万年銀賞という、いたって普通の(割には妙に体育会系な)ブラスバンドだった。自分なりには良いアンサンブルだと思っていても、やはり大会に足を運んで眼前で聴く強豪校のサウンド/ハーモニー/ダイナミクスは衝撃的だったし、越えられない壁も感じていた。結果発表における「ゴールド金賞」という司会の声、受賞バンドの歓喜の悲鳴、そのどちらにも果てしない羨ましさと妬ましさを感じていた。

今まで演奏した曲で最も好きなのは、GR(ジャイアントロボ)の交響組曲かな。高校の引退コンサートで最後に演奏した曲。シンフォニックセレクションが有名だけど、あくまで3番ね。

先生が着任してからの僅か4ヶ月で、私の部は県大会の金賞を獲った。これまで(県大会の上位数校が選出される)関西大会の常連校を率いてきた先生にとっては屈辱的な成績であったろうが、その時点での私にとっては人生で最も嬉しい瞬間の一つだった。言語化は難しいが、圧倒的に分かりやすい指導力そのものに加え、どこからともなく関西フィルハーモニーや東京佼成ウインドオーケストラの首席奏者をレッスンに呼んでくるコネの強さが凄まじかった。公務員やぞ。

中3の夏に引退してから半年ほど、受験も終わったタイミングで後輩達が継いだバンドを演奏会で聴いたときの豹変ぶりには度肝を抜かれた。ガタガタで荒削りながらも金賞は貰えた頃のサウンドから、誇張抜きで15倍ぐらい音が良くなっていた。

私の知っている下手っぴなバンドの面影はないのだというショックで、コンサートの記憶はあまりない。その年、後輩たちは関西大会で金賞を獲った。先生にとっても初(だっけ?)の悲願を、なんと就任2年目で成し遂げてしまった。余談だが、中高の吹奏楽部も大学のジャズ研も、いずれも一つ下の学年が非常にプレイヤーとして優秀かつ団結力も強かった気がする。私の代は妙にギスりがちだった。隣の芝は青いだけか、はたまた私のせいか。

 

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大学時代はビッグバンドやカルテット〜クインテットあたりをよく演っていた。

先生から直接的な指導を受けたのは半年程度だったが、それでも高校以降も楽器を続けたのは少なくない先生からの影響によるものだったので、せっかくならと引退コンサートにも足を運んだ。

同級生にも会えるかなと思ったが(コンサートを知ったのも同期からの連絡)、認識している限りで来たのは5名ほどだった。そもそも卒業から16年も経つので、仮に知り合いがいたとてパッと気づける自信もない。現に学年が一つ下の後輩の顔を見て、本人かどうか確信が持てず敬語で話してしまったぐらいには年月が経っている。社交性は今も昔もずっと低い。

 

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恩師と、同じ中学の同級生&後輩たちと。

ところで、私の同級生である男子部員もOBとして今回のステージにも上がっていた。彼とは中3のときに、大喧嘩をした。なぜ喧嘩したのか、誰が起点なのか、その理由も全く覚えていない。

コンクール前に一発ギスって、なんやかんや仲直りして、引退後にもう一回デカい喧嘩をした記憶がある。「金輪際、俺に関わるな」とメールが来たことも覚えている。その後は本当に一度も会話しないまま卒業し、彼は今回の主宰でもある他県の強豪高へと進学した。

ごめん、と謝る機会がなかったわけではない。卒業までもそうだし、成人式でも仲が良かったメンバーとの集まりで彼とはエンカウントしていたが、特にアクションは起こさなかった。意固地なものである。ありがとう、ごめんをすぐ言えるのは最も優れている人間の一タイプだ、と気づいたのは成人して更に数年経ってからである。

彼はステージ上で演奏したりサポートに余念がなさそうだったので、終演後に同級生や後輩たちと恩師に花束を渡す場面にもおらず、ついぞ今回も会えなかったなと思っていた………帰宅後に送られてきた集合写真の後ろの方に、彼がひょっこり写っていることに気づくまでは。なんや、おったんかいな。そうか。仮に私がいたことで、特に関係性に問題のない同級生にまで話しかけられずにいたのだとしたら、申し訳ないことをしたなと一晩経っても胸がつかえていた。

仮にその場で気付いていたとして、私は話しかけることができただろうか。生きていると「怒ってないけど、許してもないよ」という出来事があまりにも多い。何が悪いのかも失念してしまったことを、今になって悪かったと謝ることは大変失礼だろう。そして謝られた方は往々にして、そのまま許さなければならないという空気感にもなりがち。謝ることで勝手に救われた気持ちになりたいだけ。

コンサート中、指導者をこの日で引退する恩師は何度も「今日が僕のケジメの日なんです」と繰り返していた。ケジメ、私もつけなくてはならないな。自分に刺さった棘は、自分の手で抜くほかない。その結果、傷口から血が出ようとも。

私は彼にメッセージを送った。昨日の演奏がとても良かったこと、中3の頃に起こした喧嘩の理由は忘れてしまったことで真摯に謝れずにいること、それでも投げてしまった暴言を今まで悔い続けていたこと、今日も気付いていながら声をかけれず帰ってしまったこと、許してほしいわけではなくただ申し訳ない、そんなことを書き連ねた。

LINEはブロックされているかもしれないなぁと思っていたが、返事は比較的早くに届き、そしてシャッキリとしていた。そもそも私ら同級生が来ていることに気付いておらず、写真に写った後はそそくさと帰ってしまったこと、中3のことはお互いにヒートアップして後に引けずに絶縁宣言をしてしまったこと、幼さゆえに解決を見出せなかったこと、また向こうからの謝罪の意が添えられていた。

思えば、私も彼のことを心底憎んで過ごしていたわけではない。引くに引けずやり合っていたが、いま思うと次の日に「ごめん」と一言伝えれば終わったタイプの喧嘩ではある。間違っても氷解に15年もかかるような諍いではない。あの時に、遅くとも成人式の日にまた打ち解けることができていたとしたら、お互いの20代は変わっていただろうか。それは分からないし、ウザったい人間である私の人格が幾分かマシになったなと感じるようになったのは25歳あたりからだったので、それまでにもう一回衝突をしていたかもしれない。今だからこそ言えたなという気持ちと、もっと早く言えたらなという気持ちが交錯している。

しかし幸いなのは、お互いにまだ生きているということだ。極端に言えば、死んでさえいなければ、感謝も謝罪も愛も伝えることができる。それは歳を取るごとに強く実感していく。

 

恩師はEW&Fが好きすぎて、モーリス・ホワイトと髪型が大体同じだった。この曲も先生の十八番。

花束を渡す際、恩師は「このメンバーで一回集まらなアカンわ!」と笑顔で叫んだ。関西人の「またご飯行こ」は「行けたら行く」より実現性が低いことは断っておかねばならない。一体いつになるだろうか。だが、是非とも集まりたい。その時には、また彼を含む友人たちと、当時の想いやこれまでの過ごし方、これからの生き方についてたくさん喋りたいなと思う。

結果的には一方的な謝罪の押し付けになってしまったかもしれないが、感じたことないほど今は背中が軽い。