結婚披露宴を挙げた。
春の兆候が見えつつも寒い2月、前日はザーザー降りの雨。一生に一度の機会だからと、ドラえもん「のび太の結婚前夜」の電子版を買った。ちょっと泣いた。冷え込みが強かったものの、当日は朝からカラッとした青空が広がった。雨男の私と晴れ女の妻、軍配は妻に上がった。いつも私が負ける。さすが!
先輩方から話には聞いていたが、新郎新婦にとって一日は矢の如く過ぎていく。演目は少なく、食事と歓談をメインに楽しむことをコンセプトにタイムテーブルを組んだつもりだったが、私たちは息を吐く間も少なく写真撮影と移動を繰り返していた。40人ほどの規模感でもこうなのだから、60〜80人で余興/スピーチ/手紙などを盛り込んだ披露宴における体感時間は、さらに圧縮されたものとなるのだろう。平日の仕事もこうなら良いのにね。
これは近場のハンバーグ。
結婚式を挙げること、もっと言うと婚姻関係を結ぶこと自体が当たり前では無い世である。戴けたご祝儀を考慮しないと、一年分の手取りが丸ごと吹き飛ぶ金額である。
欲しかった車も買えるし、マイホームの頭金にもなる。食事や装花のグレードアップだけで、ビスポークのスーツを誂えたり、スーパーブランドのバッグが買える。フォトウェディング等で簡潔に済ませ、あとは生活や娯楽の資金に回すという戦略にも大いに賛成だ。
そのうえでも、私は結婚式を挙げて良かったと言える。「花嫁(あるいは家族)のため」という意見も数多く耳に入ってくる中、いざ迎えた当日、私自身もこれ以上ないほどに嬉しく・有り難く・豊かな気持ちになった。こんなに晴れ晴れすることがあるのかというぐらい、ここ数日は充ち足りた気分で過ごしている。お祝いの言葉を掛けてくださった皆さんには、生涯かけても頭が上がらない。
そして何より、この日を共に迎えた妻には、生涯にわたる感謝と、絶えることのない至上の愛(A Love Supreme)(Part.1と3が好きです)を抱いています。ありがとう、これからもどうぞよろしく。
〜〜〜以下、与太話の走り書き〜〜〜
もともと、人前で主役を張って目立つことが苦手な2人だった。社会人にとって大切な休日、少なくはないご祝儀をいただいて態々来てもらうなんて、あまりにも忍びない。余興やスピーチをお願いするなんて、とんでもない。(無論、自分が誰かに呼ばれたら両手を上げながら喜んで参列するし、余興やスピーチも楽しく協力する)
ただ、ぼんやりしたパブリックイメージや刷り込みにより、前向きな理由は無いまま"結婚式は執り行う"方向性で傾いていた。意欲とのギャップに悩んでいた入籍前、妻の家の近くの施設でウェディングフェス(いわゆる合説みたいなアレ)が開催されることを知り、足を運んだ。これが事をややこしくした。
こういったフェスの主催者サイドは式場への見学・成約で得られるキックバックのため、勧誘の勢いが凄まじい。華やかな挙式、可愛い花嫁、感動のオンパレードみたいな説明が押し寄せ、いつ見学行きますか?と尋ねてくる。見学したいです!なんて、一言も言ってないのだけれど…
滞在時間は1時間に満たなかったが、断るのが苦手な性分も相まって疲弊の目眩を起こし、家でクタクタになりながら絶望した。結婚式の準備とは、かくも苦しいのかと。トラウマ的な体験につき、しばらくは開催そのものを行わない方向で動いていた。(こんな夫婦なので、マルチ商法の声かけは本当に勘弁してほしい)
風向きが変わったのは入籍後、大学時代の友人夫婦が新居まで遊びに来た時だった。妻ともたくさん遊んでくれる、いつもお世話になっている夫婦である。
聞けば、式場見学の帰り道で我が家に寄ったのだと言う。「結婚式はやらない方向性だった」「辞める理由を見つけに行こうと式場見学に行ったら、帰りには契約していた」のだと。ご飯が美味しかったらしい。実際、先月に夫婦で参列したのだが、本当に食事は美味しかったし、多種多様な演出とイベントで大盛り上がりして楽しかった。(翌日、様々な思いが込み上げて自室で嗚咽を漏らしながら泣いていたのは秘密だ)
話を聞き、そんな不思議なこともあるのかと。折角だから我々も諦めの理由を探しに行こうと、以前から気になっていた式場の見学に訪れた。かつては省庁の建屋として使われていた登録有形文化財で、レトロモダンなオーラが漂う、小ぢんまりとした施設。建築様式や時代背景には明るくない2人だけれど、雰囲気が好みだった。以前、クリスマスにディナーで訪れたことがあり、アンティークの什器や絨毯が魅力的な披露宴会場も相当気に入っていた。
見学の際には「目立つのが苦手」「余興やスピーチもお願いしたくない」「なんだったら結婚式を行うこと自体に後ろ向きである」など、正直な思いを全てプランナーに打ち明けた。
やはりとも言うべきか、いわゆる\パンパカパーン!/というイメージとは真逆の、ひっそり落ち着いたムードの式場。プランナーさんは即座に「問題なし!余興もスピーチも無しでOK。リラックスして大切な日を過ごせるよう、お手伝いします」と全てを飲み込んでくださった。肩の荷がストンと降りた瞬間だった。会場を出て、駅まで歩く中で「なんか、やりたい気がしてきた」と半ニヤケで妻に話しかけた自分のことを強く覚えている。
そこからの準備はトントン拍子…ではないにしろ、大きな難もなく当日を迎えた。結婚式の話をすると、皆が口を揃えて「準備の時に大喧嘩をして、それがキッカケで更に仲が良くなった」と言う。少しドキドキしていた。交際を始めてから3年半、一方による怒り怒られ(圧倒的に怒られ)が何度かあったものの、我が家は一度も喧嘩をしていないのである。喧嘩するほど仲が良いとは言うが、喧嘩しない関係性の方が私は好きだ。許されるのであれば、最期の刻まで喧嘩は起こらない方が良い。
結果として、意向の確認不足による小競り合いはあったものの、盛大な殴り合いはなく当日を迎えた。
結婚式というのは、強烈な生と同時に死を意識する時間だと、入籍してから(自分を含めた)3度の結婚式で実感している。半生を振り返るVTRや、今日ここには居ない人たちに思いを馳せる瞬間、そうさせる要因は多々ある。式の最中も、1年半前に逝去した祖母のことを長く考えていた。
我々は教会式の挙式を選んだが、誓いにおいて神父が読み上げる定番の「健やかなるときも〜」の最後は「死が二人を分つ、その時まで」である。この言葉を聞いて、ウッと心が詰まるような感覚を抱いた。
いま目の前にいる人も、同世代の友人たちも、幸いなことに90歳ぐらいまで生きられたとして、精々60年+αである。両親や親族ともなると、更に短い。悩ましいことに、終いの日がいつ訪れるかは分からない。そのことで、どうしようもなく寂しくなることがある。健康に生きること以外で対策らしい対策は無いが、何にせよ後悔だけはしたくない。時間は有限である。
特に隠す事実でもなく、我が家はマッチングアプリを通じて知り合った関係。ある夏の夜にアプリをインストールし、プロフィールを設定しつつ"いいね"ボタンをポチポチ押してから寝て、朝起きたら最初にマッチしていた方とメッセージのやり取りをし、お付き合いし、そして結婚した。この時点で、マッチングアプリ界でも相当レアな経験をしていると思う。
更に不思議なことに、私がアプリを通して実際に会った(食事に行った)方は妻を含めて2人だけ。なのだが、お会いしたもう1人の方は妻の高校時代の大親友であったことが、お付き合いを始めてから間もなく発覚した。「友達と台湾に行ってくるねん」と言うので、帰国後にツーショットを見せてもらったら、なんだか見たことのある顔…めちゃくちゃに頭を抱えた。自白を受けた妻は爆笑していた。当然、その方も結婚式に呼んだ。3年半ぶりにお会いし、その節はどうも、と会話を交わしてスリーショットを撮った。事実は小説より奇なり、とはよく言ったもの。
フェルミ推定と数学を駆使すれば、この「初めてマッチした人と結婚する」「メッセージを通じて実際に会った人が知人関係*である」事象がいかほどの確率で起きるかは概算できそうだが、数による裏付けは特に欲していない。天文学的な数字を引いたなぁ、ぐらいの認識で良い。
一つ言えるのは、このエピソードがウケる確率は高い。
*アプリには共通の趣味(当時は折坂悠太, 長岡亮介, STUTS, POPEYE等々)を見つけるためのコミュニティ機能があり、私はオーバーラップが多い方に集中して"いいね"を押していた。妻と友人は価値観が近しいからこそ親友なのであり、それだけ私とのオーバーラップも近くなる。イメージしているよりもマッチ確率は高いと思う。